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エルツ城 ―切り立った複合建築― その6

一度も破壊されなかったエルツ城
17世紀はドイツの城郭にとって危機の時代でした。
例えばプファルツ継承戦争中の1688年から89年にかけて、ライン川とモーゼル川流域のほとんどの城郭がフランス軍に破壊されてしまったのです。
中世の城郭が防御施設として本当の意味で無力化したのは、この時期なのです。フランス軍が警戒して城郭を破壊したという事実は、それ以前まで城郭が防御施設としてある程度機能していたということを裏付けるでしょう。

エルツ城の場合はどうだったかというと、実は無傷でした。
エルツ家のハンス・アントン・エルツ・ウッティンゲンのフランスとの交渉が成功したため、間一髪攻撃を免れたともいわれています。
あまりに辺鄙なところにあるからフランス軍も攻める気なかった可能性もありますが。
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エルツ城の相続
以前も述べたように、エルツ城は三つの家系が共同で相続していました。
しかし、最終的には一つの家系に収束します。
1742年にマインツで生まれたフゴ・フィリップ・ツー・エルツ・ケムペニッヒは、すでに断絶していたローデンドルフ家系の財産を手中に収めるとともに、1815年にリューベナッハ家系の相続分を買収することで、エルツ城の唯一の所有者となったのです。

城郭の修復とロマン主義
1844年にエルツ城を相続したカール・ツー・エルツは、城郭の修復に尽力しました。
修復作業は1888年までかかり、現在の800万ユーロに相当する184,000マルクの金額が費やされました
老朽化が進んでいた城郭は、構造をほぼ変えることなく復元され、内部の壁画も画家エデュアルド・クナックフスによって色鮮やかに修復されました。
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↑1866年に撮影されたエルツ城。(出典:Ritzenhofen, Ute: Burg Eltz, 2010.)


エルツ城に限らず、19世紀は城郭の復興運動が急速に進んだ時期でした。
この運動は、当時のロマン主義的思想と連動して起きたものといわれています。
急速な工業化・都市化に疲弊したロマン主義者たちは、都会にみられる統一的な建築様式よりは、エルツ城のような複合建築を好みました。彼らは自然と一体化した幻想的な複合建築に、憧れの中世世界の残滓をみたのです。

ノイシュバンシュタイン城の建設などもこうした思想の影響を受けています。理想の中世世界の復興を、中世城郭をイメージした夢の城の建設によって実現しようとした例といえるでしょう。

さて、エルツ城は19世紀の大復興以後も、継続的に修復が続けられて、観光地としても不動の地位を築きました。
現在は34代目当主カール・ツー・エルツ・ケムペニッヒさんが城を管理しておられます。
エルツ城は、数百年の時をエルツ家とともに生き続けているのです。
エルツ城公式HP

エルツ城の話はさしあたってここで完結(たぶん)。いかがでしたか?
当ブログでは、他ではあまり書かれていないようなエピソードや切り口からお城を紹介していきたいと思います。
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エルツ城 ―切り立った複合建築― その5

城内礼拝堂はなぜ張り出しているのか?
1472年に完成したエルツ城のリューベナッハ・ハウスには、中庭側に礼拝堂内陣が張り出しています。
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この張り出しは、三つの尖頭窓を付けています。窓の上部は、それぞれゴシック様式の聖堂建築によくみられるトレーサリーと呼ばれる幾何学模様で飾られています。
張り出しの下部は、繊細に仕上げられたコンソール(持ち送り)によって支えられています。また、上部には非常に長くて鋭い屋根が付いており、中庭でひときわ目立っています。
内側では、十五世紀に描かれたガラス彩色画によって色彩豊かな室内空間が作り上げられています。

エルツ城に限らず、城郭のなかでトレーサリーが付いた窓があれば、それはたいてい城内礼拝堂の窓であると識別できます。
ゴシック様式の聖堂・修道院が建てられた時代と、中世城郭が建てられた時代というのはほぼ一致しており、城郭建築はゴシック建築からおおいに影響を受けているのです(逆に修道院なども防御施設を兼ねていたりするので、城郭建築からも宗教建築に影響を与えたという流れもあると思います)。

なぜ、このような形で礼拝堂が張り出しているのでしょうか?
実は、これと同様の形式はエルツ城以前の城郭にも散見されます。

Château du Landsberg
こちらはエルザスのランズベルク城(Landsberg)。フランスとドイツの国境付近にある都市ストラスブールから南西30kmに位置します。騎士ランズベルクの城郭で、1144年頃から存在が確認されています。

Landsberg kapellenerker
この城郭の居住館東側のファサードには、半円形の張り出しがみられます。壁は基本的に表面がでこぼこしていますが、この張り出し部だけは全体的に表面が滑らかです。円錐形のコンソールに支えられたこの張り出し部には十字型の穴があけられており、この点からキリスト教に基づくモチーフであることがわかります。張り出し部の上方も屋根のような円錐形で仕上げられ、屋根のすぐ下は半円アーチ模様のフリーズで飾られています。研究者ウルリヒ・シュテーフェンスは、この張り出し部が居住館二階全体あるいは一部を占める重要な大広間に接していた可能性を指摘しています。

これが城内礼拝堂が張り出している最初期の例です。シュテーフェンスは、十二世紀にこのような張り出しが登場した理由を以下のように推測しています

・この時代にキリスト教が以前よりもより強く個人の生活に入り込んでいった。つまり、十字軍遠征を機にキリスト教熱が高揚し運動が大衆化したこと、世俗の騎士の刀礼に教会の規則に則った振る舞いが結び付けられるようになったこと(騎士の聖別式)など。
・礼拝堂の内陣の張り出しは、君主が自らのキリスト教に対する敬虔さを外部にアッピールするために構築された。しかもそれを豪華に仕上げることで、君主の豊かさも強調できた。
・張り出しは、内部に礼拝堂が存在することを強調し、聖界と俗界の権威が城主の居住空間に集結していることを暗示する。
・さらに、より快適な生活を追求した結果でもある。つまり、城内礼拝堂を君主の居住館の中に収納することで、日常的な礼拝を移動なしで済ませることができた。
―Stevens, Ulrich: Burgkapellen. Andacht, Repräsentation und Wehrhaftigkeit im Mittelalter, 2003.



単に城内のスペース不足で飛び出したのでは・・・?という指摘もありますが、シュテーフェンスは、これを否定します。なぜなら、このような張り出しは非常に大きな城郭にもみられるからです。(ウィツィンゲン城など)

というわけでランズベルク城の作例以後も、城内礼拝堂が張り出す形式は、一つの君主の文化として受け継がれることになったのですね。エルツ城もその流れの中に位置づけられるでしょう。君主は、キリスト教を篤く信仰していることは自分の信頼と権威につながると考え(異教徒と間違われると大変!)、こうした想いを、居城の建築に反映させたのでしょう。その点で、城郭建築は単なる軍事施設というだけでなく、建設当時の思想や文化を表現するものでもあるといえます。

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エルツ城 ―切り立った複合建築― その4

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出典:テート美術館

こちらの水彩は、イギリスの画家ウィリアム・ターナーが1840年に描いた「北側からみたエルツ城とトルッツ・エルツ城」という作品です。
ターナーはエルツ城周辺地域をよく旅しており、エルツ城にも何度か訪れ、スケッチをいくつか残しています。
この作品では、手前に赤っぽく彩色されたトルッツ・エルツ城、奥にぼんやりとしたエルツ城が配置されています。
エルツ城がメインに描かれることが多いなか、トルッツ・エルツ城からみたエルツ城という珍しいアングルで、二つの城郭を捉えています。そして、険しい岩山の上に立っているそれぞれの城郭は、緊張感をもって対峙しているようにみえます。
この二つの城郭は、いったいどのような関係にあるのでしょうか。

エルツァー・フェーデ
「エルツァー・フェーデ」は、エルツ城の歴史のなかで重大な出来事といえます。
フェーデとは一般的に、中世ヨーロッパで行われていた決闘の一種。自分の権利が侵害されたとき、それに対抗するために(一族総出で)武力行使を行うもので、法的に認められた報復行為・自力救済を指します。

時は14世紀。エルツ家の騎士たちは神聖ローマ帝国の皇帝のみに従う自由身分にあることを自認していました。
一方、エルツ城近郊のコブレンツ方面へ急速に支配権を拡大していたのは、トリーア大司教バルドゥイーン・フォン・ルクセンブルク
ドイツでは教会勢力も土地の支配権を掌握しており、大司教ともなると相当の権限と支配地域を所有していました。
バルドゥイーンはエルツの騎士たちを自分の封建家臣であるとみなし、認めさせようとしました。
しかしエルツ側は反発。これに対し、大司教は決闘、つまりフェーデを申し込んだのです。

大司教はエルツ城のすぐそばにトルッツ・エルツ城を築き、威圧しました。
そう、トルッツ・エルツ城とは、エルツ城に対する威圧城郭であり、常にエルツ城の動きを監視し、補給路を遮断する役割を担っていたのです。
しかし、エルツ城は決して落城することはありませんでした。

とはいえ、数年経った1333年にはエルツの騎士たちが先に折れ、講和を求めました。
1337年に締結された講和条約では、エルツの人々はトリーア大司教の封建家臣になることが正式に決まりました。
エルツ城は封土(レーエン)として、大司教から与えられる形で引き続きエルツ家が管理することになりました。
やれやれ、大司教の支配下に入ったものの、エルツ家は城を守りぬいたのです。
その後、エルツ城がどんどん拡張されていったことからもわかるように、一家の勢力は伸び続けていきました。
そしてフェーデから二世紀ほど経った頃、エルツ家のヤコブ三世がトリーア大司教に選出されました。
エルツ家は、かつて自分たちを支配していたトリーア大司教の地位に、自ら就いたのです。

こうしたエピソードを持ったトルッツ・エルツ城は、廃墟となっていますが、いまでもエルツ城からその姿をうかがうことができます。こんな至近距離から監視されていたのに、エルツ家はよく何年も耐えたものです。
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エルツ城 ―切り立った複合建築― その3

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エルツ城での生活
前回は、エルツ城の建築が三つの家系によって、それぞれ長い年月をかけて構築されてきたことをお話ししました。
それでは、エルツ城ではどんな生活が営まれていたのでしょうか。
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三つの家系が共同で一つの城郭を所有するためには、お互いの間で権利と義務を調整する必要がありました。
彼らは、調整のための書簡をしっかりと残しています。
例えば1430年に締結された城内平和協約の書簡では、事細かに城内生活のルールが示されています。

1、城の者たちは、お互いの物や生命財産も、女子供の物や生命財産も害してはならない。戦争であろうとなかろうと、城内平和協約のなかにある者はみなお互いに守り、そして助けあわねばならない。
2、城の中または城内平和協約に加盟する者の中で誰かが叩かれて死んだ場合、殺害者は今後城内平和協約から脱退しなければならず、彼の跡継ぎはエルツ城から何の権利も得られない。 
-Zit. Ute Ritzenhofen, Burg Eltz, München/Berlin, 2010.


エルツ城では、実際に城内で殺人事件が起きた反省から、このような厳しい規定が設けられたと考えられています。
さらに、この書簡では隷農や奉公人、城郭の滞在者に対する措置も定められています。

13、諸侯、伯、領主たちが城に滞在する場合、おのおのの人は公的に捺印された書簡を作成し、それを代表の建物の主に送らなければならない・・・。
14、ある諸侯が城に滞在するためには、先に代表の建物の主にマインツ通貨の40グルテンと二つの質の良い弩などを渡さないといけない。また城に滞在する者は門番に1グルテンを渡さなければならない・・・。 
-Zit. Ritzenhofen.


ここで言及された「建物の主」という役職は非常に重要で、この人物は城郭の維持と修理に関して責任を持っていただけでなく、城郭の防衛を組織し、衛兵などを雇う権利も持っていたそうです。
それにしても、客人は他人の城に滞在するためにいろいろな手続きを行い、手数料を支払わなければならなかったのですね。
城郭はある種一つの法的空間を形成しており、城郭内では城主があらゆる権限を所有していたのです。
そのため、城を所有することは大変なステータスであり、財産でもあったわけです。

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エルツ城 ―切り立った複合建築― その2

最近はドイツ語の翻訳の仕事や講演会の準備、その他書類作成等でてんやわんやになってきたので、月末までは更新はかなり不定期になると思います、あらかじめご了承ください。。

エルツ城の構造

さて、前回の続きです。エルツ城の全体像を堪能した後は、谷を降りて入り口まで向かいます。
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やはり近くに来ると迫力があります。観光客は年間20万人くらいいるようですが、日本人観光客はほとんどみられません。

エルツ城の構造を把握するために、平面図を参照しましょう。

Burg elz.gif
By thw1309 - selbstgefertigte Zeichnung, CC BY 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1869125


私たちは今、平面図の下の入り口前に立っています。門をくぐった先には、いくつかの建物が中庭のまわりに立ち並んでいることがわかります。それぞれの建物を建設順にみていきましょう。

プラット・エルツ
入り口からみて一番奥にたたずむ正方形平面の建物。このプラット・エルツと呼ばれる建物が、現存する最古の部分です(12世紀中頃)。
プラットは卓上地(Plateau)という単語に由来するといわれており、確かに小さな卓上型の岩の上に築かれています。
この土地に豊富な硬砂岩や粘板岩が用いられ、7階層から成るこの建物の二階層目には、中庭側にロマネスク様式の二連アーチがみられます。
これと同じ様式のアーチが、別の建物(ケムペニッヒ・ハウス、1651年完成)の壁から1978年に出土しました。

このことからわかることは、12世紀頃にはすでにプラット・エルツ以外にも建物が立ち並んでいて、それらのほとんどが後の改築で潰されていったということです。古い建物にそのまま覆い被せるようにして新しい建物つくるんですね。

リューベナッハ・ハウス
エルツ城の城主であるエルツ家は、1268年に3家に分家します。それぞれの家系はエルツ城を共同で所有し、それぞれの居住施設を新たに建設していくことになります。
最初に完成したのが銀獅子の家系によるリューベナッハ・ハウス。中庭の西側に、1472年に完成しました。
8階層で、長方形平面のこの建物の外側は、上層だけ白く化粧塗りされており、上層の両脇には小型の塔が付いています。
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よく見ると、中層あたりに小型の出っ張りがあります。これはトイレです。つまり、昔の人は排泄物を空中に垂直落下させていたのです。下の処理はどうなっていたのか・・・?中世ヨーロッパでペストが大流行したのは、こうした不衛生さが大きな要因になっているのではないでしょうか。

ローデンドルフ・ハウス
1470年頃には中庭の北側に、牛角の家系によってローデンドルフ・ハウスの建設がはじめられました。
この建物群の中核を成すのが大ローデンドルフ・ハウスで、10の階層、40mの高さを誇る城内最大の建物です。
壁の色は他の建物よりも暗めですが、上層部は赤と白のハーフティンバー(木組みが壁の表面にむき出しになった部分)で組まれた三つの屋根窓で飾られています。
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ケンペニッヒ・ハウス
最後に金獅子の家系がケンペニッヒ・ハウスの建設に着手しました。
この建物の玄関は、中庭で最も目立っています。玄武岩の柱がアーチを支え、その上に白く化粧塗りされた建物の張出部分が乗っています。また、玄関横には大きな階段塔が隣接しており、上層には赤と白のハーフティンバーが組まれています。こうした螺旋階段の塔は、ルネサンス期の建築によくみられるものです。
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この玄関のアーチをのぞき込むと、1651という数字が書かれていることがわかります。これはその年にケムペニッヒ・ハウスが完成したことを示しています。
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ケンペニッヒ・ハウスの完成で、エルツ城はほぼ現在の構成に仕上がりました。
このように、増改築を繰り返して非常に長期間使用された中世城郭の例は枚挙にいとまがありません。
ひとくちに「このお城は中世の姿を保っている!」ということは難しいのかもしれません。実際はいろいろな時代のいろいろな建築様式が絡み合うように立っているのです。
これが、城郭建築の様式分類を困難にしています。「常に例外」がつきまとっていますから(笑)
しかも、後の時代の修復なども考慮すると、現在の姿にまどわされてはならないと思われます。
例えば、エルツ城のハーフティンバーなどは最近修復されていますが、その過程でデザインが変更されていたりします。ある意味このお城は今も成長を続けているといえます。

次回はエルツ城にまつわる歴史についてご紹介したいと思います。
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エルツ城 ―切り立った複合建築― その1

ドイツのお城といえばノイシュヴァンシュタイン城を思い浮かべる方も多いかとおもいます。
ですがここでは、あえて私の一押しのお城から紹介したいと思います。
それは、エルツ城(Burg Eltz)です。

エルツ城への旅
個人で城郭へ旅する場合は、事前に様々なことをチェックしておかなければなりません。
古い城郭であれば、山奥の辺鄙なところにある場合が多いので。
私の場合はよくドイツ鉄道のHPでお城の近くまでの道のりを検索します。便利です。
さて、エルツ城へ向かって出発です。出発地は、ライン川とモーゼル川が合流する町、コブレンツです。
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コブレンツからローカル電車で数十分、ハッツェンポルトというモーゼル川流域の町に着きました。
ここは人口1000人にも満たない田舎町ですが、斜面にワイン畑が広がっていて、町並みが綺麗でした。
時間があったので、川沿いのベンチで休んでいたところ、この町の子供たちはみんな私に挨拶をしてくれました。
見知らぬアジア人にもきちんと挨拶するとは、いい教育してるなあ。というか、こんな田舎にも子供がたくさんいるのかと関心しました。
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ハッツェンポルトからバスに乗り、エルツ城の駐車場へ。
バスを降りると、目の前にあるのはただの林。お城はどこ?
とりあえず小道があるので、歩いていきます。
しばらく歩いていくと、突然視界が開けます。眼下には、巨大な建造物が広がっています。
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エルツ城が旅人に鮮烈な印象を与えるのは、この光景です。
たいていの場合、お城は山の頂上にあり、旅人は城を最初見上げることになります。
一方でエルツ城の場合、いきなり城の全体像を見降ろすことができるのです。
実際にこの光景に驚いた著名人がいます。それはフランスの作家ヴィクトル・ユゴー(1802~1885年)です。
彼は『見聞録』のなかで、エルツ城の第一印象をこう語っています。

高くて、巨大で、驚くほどに不気味だ。こんなものはいまだかつて見たことがなかった。人はその城郭を高い切妻造りの群集と呼ぶことができるだろう。-Victor Hugo, Choses vues 1848-1869, Paris 1972.


切妻、つまり三角屋根がところ狭しと並んでいる様子は、確かに異様です。一つの建築なのに、町のようです。

また、19世紀イギリスの旅行作家キャサリン・マックォドは、このように述べています。

誰しもこの城郭を言葉で言い表すことはできない。この城郭はまるで石の物語である。全体像は現実というよりはむしろ夢想である・・・。-Katharine Macquod, In the Volcanic Eifel, London 1896.


彼らがいうように、エルツ城が非日常的な印象を与えるのは、無理もありません。
というのも、この城郭にはロマネスクからバロックに至る様々な建築様式が混在しているのです。
それにもかかわらず、全体としてまとまりがあり、まわりの大自然とも調和している。
まさに、「複合建築(Gebäudekomplex)」といえます。
様式が統一的な都市の宮殿や聖堂とは、異なる魅力がそこにはあるのかもしれません。

次回は、エルツ城の建築と歴史を、より詳しくみていきたいと思います!
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プロフィール

Ume

Author:Ume
ドイツのお城を専門に研究している珍しい人。著者についてはこちらもご覧ください。Facebookページはこちら(ブログ更新情報をお届け)。講演・執筆依頼など、メールフォームやコメント欄から気軽にご相談ください。
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