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ムノート城 ―デューラー神話の真偽に迫る― その1

スイス・シャフハウゼンムノート城(Festung Munot)は、16世紀後半に建設された、町を守るための要塞施設です。要塞(Festung)とは城郭や城館とは異なり、支配者の長期の居住を想定していない純粋な軍事施設で、火砲に対する防御・火砲を用いた防御が想定されたものを指します。

ムノート城は、19世紀の軍事史家マックス・イェーンスによって、以下のような評価を与えられました。

「全体として彼(デューラー)のコンセプトに基づいて建設されたものとして、おそらくたった一つの要塞が存在する。すなわちそれは旧帝国都市シャフハウゼンのムノート城である」
―Jähns, Max: Handbuch einer Geschichte des Kriegswesens von der Urzeit bis zur Renaissance, Leipzig 1880, S. 1187.


アルブレヒト・デューラーは、ドイツで最も有名な画家ともいえる人物。彼は1527年に『築城論』なる書物を残しており、そこに示された要塞建築の理論が、ムノート城に集約されているというのです。

イェーンスのこの言説が発表されて以後、多くの城郭研究者たちはそれを検証もなしにそのまま引用してきました。
その結果、「ムノート城はデューラーが設計した」というイメージが定着してしまったのです。

デューラーはとても偉大な芸術家ですから、シャフハウゼンにとってはこの上ない町のアピールポイントでしょう。
しかし、このデューラー神話って本当なの?近年になってようやく詳しい検証がなされるようになりました。

今回はその検証の内容に入るまえに、ムノート城の特徴と歴史をまず紹介したいと思います。

ムノート城の建築的特徴
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ムノート城は、主要部分を成す大きな円形状の建物に、円塔が連なった簡素な形態をしています。

円形状の建物は直径約50m、高さ約20mで、石灰岩を砕いて作られた角石によって構築されています。
北側は都市の外側に面しており、最も攻撃を受けやすい部分ですが、ここは深さ8.5m、幅22.6mの堀で守られています。
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現在、堀の中では鹿のような生き物が放し飼いにされています。緊張感ないな。

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堀の中を防御するために、カポニエールもついています。カポニエールとは、堀の中で防衛射撃を行うために取り付けられた小型の防御施設。そのため、小口径砲用の穴が開いています。手作業で仕上げられたなめらかな円蓋部には、硝煙の吐口となる小さな穴が多数開いています。

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さらに、堀の中にはこのような顔型銃眼までついています。一か所だけこうなっているのは、遊び心からでしょうか。
顔型銃眼は同時代の防御施設にしばしば見られ、流行りでもありました(ノイダーン城、アウクスブルクの市壁など)。

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内部はこのように、シェルター状になっています。壁は非常に厚く、さらに重厚な9つの円柱が立っており、大砲の衝撃にも耐えうるようできています。天井には4か所に円形の穴があり、室内に光を供給しています。

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屋上はこうなっています。イベントやる気まんまんですね。
屋上には塔への入り口があります。この塔は高さ約40m、直径約10mで、中世城郭の主塔とほぼ同じような形式です。
基本円形平面ですが、上層部だけ正八角形になっており、赤白のハーフティンバーが組まれています。この部分の内部は居住可能な空間になっており、歴代の監視役が住み込んでいました(今でもだれかいる模様)。

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屋上からはシャフハウゼンの町と、ライン川を一望することができます。

その他、ムノート城からは防御回廊が二本伸びており、それが町と直接連結しています。町の住民がすぐに逃げ込めるようになっています。

ムノート城建設までの道のり
ムノート城の原型は、中世中期から存在しました。史料の初出は1379年のこと。町の見張り塔として使用されました。
簡素な塔にすぎなかったムノート城を、要塞に改築する計画が持ち上がったのは、1550年のことでした。
いろいろもめて、シャフハウゼン市参事会によってこの計画が承認されたのは1563年でした。莫大な費用を投じて町の要塞を建てる必要があるのか、議論になったのでしょう。

ムノート城の建設は参事会によって指名された委員会が先導しました。1563年の12月にムノートに労働者が集まり、石材も運ばれました。1564年3月には円形の主要部分の定礎式が行われ、外側が完成したのが1577年でした。その間に古い塔が取り壊され、1571年には新しい塔の建設も始められました。そしてそれは三年後に仕上がりました。

1579年には主要部分の内部における柱がたてられました。1585年には3つのカポニエールが取り付けられ、1589年には塔の上に新しい鐘が付けられました。これによってムノート城はほぼ現在の形となりました。

この20年以上の長期にわたる建設工事に従事したのは、シャフハウゼン市民や隷農、シャフハウゼン管轄区内の村落民からなる賦役労働者と、ある程度の熟練技術を有する町の職人たちでした。
賦役労働の対価はささやかな食べ物と飲み物でした。伝承では、賦役労働者の多くは無産市民だったといいます。ひょっとすると、ムノート城の建設は、失業者を救済するための公共事業の側面もあったのかもしれません
一方で、職人たちにはよりよい日当が支給されましたが、彼らはしばしば賃上げを市参事会に要求していたようです。

町の防衛拠点を建設するわりに、労働者はずいぶんのんきだったようです。
しかし、建設費は全体でおよそ47332グルテンかかったとされ、同時代にアラーハイリゲン修道院の増築に2900グルテンしかかかっていないのを考慮すると、相当な額だったことがわかります。

ムノート城はシャフハウゼンにとって一体何なのか、ますます謎が深まります。そしてデューラーとの関係性は本当にあったのでしょうか?詳しくは、次回へ。
ムノート城 その2へ進む

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ドイツのお城を専門に研究している珍しい人。歴史・美術史を専攻、修士(文学)。筆者についてはこちらもご覧ください。Facebookページはこちら。講演・執筆依頼など、メールフォームやコメント欄から気軽にご相談ください。
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